当山は了智法師の開基になる。了智法師は江州佐々木の一族で、初め高野山にあり、のち親鸞聖人の法弟となり釈了智と号した。
信州栗原に一宇を創建して正行寺とした。のち上州荒居に移り荒居山・高徳寺を建立した。別称、明見山とも言った。
元亀年間に兵火に罹り寺跡を下総国小見村に移し、慶徳年間に江戸八丁堀に移転した。その後、明暦3年の振袖火事に遇い、慶応3年に浅草区北松山町に移り、明治42年5月に浅草の区画整理により、現在地に堂宇、墓石をそのまま転地した。
昭和20年第二次大戦による大空襲で、本堂、書院、庫裡など一切を焼失したが、昭和57年に本堂が再建され、平成7年に書院、庫裡と新井白石記念ホールが建設された。同ホールは葬儀会場としても利用されている。
境内には江戸中期の朱子学者で近代思想家として有名な新井白石夫妻と一門の墓があり都の旧跡に指定されている。
白石は延宝年間、元禄年間の2度にわたって当寺に寄宿し、「折りたく柴の記」など執筆されたと伝えられている。
|