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<寺院沿革>

 戦国時代の末に三河に在った東正寺に、徳川家康公から厚く信奉されていた春公上人という住職が居り、常々家康公から、天下を取ったときには近くに寺を構えてほしいといわれていた。
 大阪夏の陣の翌年の慶長六年に、その言葉通り家康公から江戸城内に土地を拝領したことにより、春公上人はご本尊・阿弥陀如来と共に江戸に赴き寺を建立。ここに貞源寺の歴史が始まった。
 貞源寺の名の由来は、春公上人の師である観智国師より山号(榮康山)院号(東照院)を賜り、師の号である貞蓮社源誉より(貞)(源)を頂き、榮康山東照院貞源寺と号した。
 慶長八年に開山・春公上人が亡くなり、寺も類焼により本堂を焼失したが、二代将軍秀忠公により現在の神田小川町あたりに替地を拝領し、二世住職・重的上人が本堂を再建した。その後、明暦の大火で消失したが四代将軍家綱公により浅草松葉町に替地拝領し、五世住職・残公上人が本堂・庫裡を再興した。
 その後十七世住職の代、関東大震災により本堂・庫裡を消失し、現在地に移転した。
十七世住職・藤木学道の尽力により復興されるも太平洋戦争末期の空襲により消失。昭和三十年に本堂・庫裡一体の建物を造った。
 学道は、生涯二度の火災を経験したことから、(榮)の字の、上に火が二つあることを嫌い、山号を[永康山]と改める。
 現在の規模は、十八世住職・藤木宏清により、昭和三十六年に整備された。
 現在の十九世住職の芳清は、藤木家が貞源寺歴代住職を務めるようになってから三代目に当たる。